原告の被災体験

 61年前、大阪の街が火の海になった大空襲のあの日から、大阪市西成区の小見山重吉さん(75)は我慢とあきらめの戦後を過ごしてきた。顔面と手足を焼夷弾に焼かれ、両手の指は今も折れ曲がったままだ。長い間、自らの姿を写真に撮らせることもなかった。だが、残りの人生は前へ出て、自分をこんな目にあわせた「国」と闘おうと、決意した。 【武田肇】
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 45年3月13日深夜。14歳の小見山さんは「空襲や」という母の声で目覚めた。防空壕に飛び込んだ直後、目の前が真っ赤になった。焼夷弾の直撃。全身が燃え上がるのを手で必死に消そうとしたが「炎は肌にひっついたように離れんかった」。
 鏡に映った顔は「土左衛門より醜かった」。水ぶくれをつぶして白い粉をかけるだけの治療を受けた。学校はその日以来行っていない。
 鉄工所を経営し、地雷の部品などを軍に納めていた父周一さんは、「国を恨むなよ」と何度も言った。終戦半年後、父から釣りに誘われた。大阪湾につながる川で小舟に乗った。突然背後から抱きかかえられ、冷たい水に一緒に落ちた。小見山さんは懸命に水をかいて助かったが、父は事切れた。息子の将来を悲観した「心中」だった。
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 治療費を稼ぐため、日雇いで必死に働いた。「猿」「やけど」とあだ名され、電車では傷跡が目立つからと、つり革につかまらなかった。当時、大阪市内で道路工事をすると白骨が出てきた。「ぼくもこないに死んだ方がましや、と何度も思った」
 52年、戦傷病者戦没者遺族等援護法が施行され、軍人軍属の遺族や障害を負った人に年金が支給されるようになった。だが一般戦災者は「国と雇用関係がなかった」と排除された。「手術代を貸してほしい」と区役所で談判したが、「あんたみたいもんはぎょうさんおる」と断られた。
 握力は少し残っていた。町工場で下働きし、金型職人の腕を磨いた。28歳のとき幼なじみの孝子さんと結婚。7年後、自分の工場を構えた。
 高度成長期、ダムや船舶用の「水密ゴム」の型枠を休み返上で作り、妻と子2人との生活を支えた。外見のことで何を言われても怒るまいと心に決めた。空襲体験は封印した。どう語っても負け犬の惨めな話になる。ケロイドが負い目で、子供の参観日も欠席した。
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 10年前に初孫が生まれ、だんだん大きくなった。「おじいちゃんはどうしてジャンケンができないの」と聞かれ、はっとした。「この子を同じ目に遭わせたらあかん」。少しずつ体験を語るようになった。
 今月4日、小見山さんは東京都台東区であった東京大空襲の集会に参加した。焦げて形の変わった手を掲げながら「国が戦争を始めながら犠牲者を放置し、我慢を強いるのは許せない」と訴えた。東京大空襲の被害者と遺族が国に謝罪と賠償を求める訴訟をこの夏にも起こすのを知り、自らも裁判の準備を始めた。
 小見山さんは言う。「曲がったこの手を闘いの武器にする。二度と戦争をしない国にするために、恥ずかしいと言ってられへん」

(朝日新聞2006年3月11日から)

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小林英子

 太平洋戦争中の空襲で負傷したとして、国に補償を求めている女性がいる。兵庫県西宮市の小林英子さん(74)。「私の戦争はまだ終わっていない」と先月には、民間人の戦争被害を補償する「戦時災害援護法」の制定を求める署名活動に参加した。大阪に落ちた焼夷弾で傷を負った「あの日」から、小林さんは7日で62年を迎える。 【平川哲也】
 夏と見まがう太陽が、小林さんのブラウスに薄く汗をにじませる。先月27日、空襲で負傷した関西在住の民間人でつくる「戦災傷害者の会」の署名活動。「協力してちょうだい」。JR大阪駅前で、袖を引っ張られた若い男性が足を上めると、小林さんは体験を語りながらペンを託した。
 空襲警報がして間もなく、正午前後だったか。1945年6月7日、大阪市都島区の自宅。ラジオが「市民の皆さん、頑張って下さい」と伝えたこと覚えている。米軍爆撃機の群れが太陽に重なると、ザーツという滝が落ちるような音がして焼夷弾が降り注いだ。小林さんは12歳。座布団を水にぬらして一目散に逃げたが、すぐに後悔する。振り返った時に家族の姿はなかった。弟2人を連れ、母は別の場所へ逃げていた。
 「お母さーん」。炎の中、母を探した。心細くなり、玄関が開いた民家に飛び込んだ時だ。座布団からはみ出た右足が、ガクンと滑った。手のひら大の焼夷弾の破片。突き刺さった足からは肉が見え、大粒の血が地面を赤く染めた。
 4日後、再会した母が「顔でなくてよかったね」と話すのを腹立たしく聞いた。だが、病院で顔にやけどを負った人を見て考えを改めた。「私が痛みを口にすべきではない」。28歳までに右足を4回手術したが、沈黙を自らに課した。
 32歳で結婚。足に持病がある夫(70)と洋服の修繕をなりわいとした。その傍らで保険会社の営業をし、週末は競馬場で働く生活を65歳まで送った。その報酬から治療費をねん出した。後退症で右足はひざが曲がらないが、戦災のことは口にしなかった。「自分が負傷した年ごろに孫がなったら、読み聞かせたい」。そう思って、体験を書いた本を自費出版したのは2年前のことだ。
 52年に施行された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」は、障害を負った元軍人・軍属や、その遺族に年金を支給することを定めている。しかし、同法が民間の戦災者に適用されることはない。国との雇用関係がなかったとして、補償の対象外となっているためだ。
 砲兵工廠など軍事施設が多かった大阪には、終戦1日前の1945年8月14日までに五十数回の空襲があり、1万人以上が死亡したともされる。「みじめな思いはもうたくさん。私もまた戦争の被害者なのだから、せめて軍人なみに補償してほしい」。幾重にも手術痕が残る右足が、62年を経た今もなお、小林さんの苦悩を物語っていた。

(毎日新聞2007年6月) 

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安野輝子

 1945年7月16日私は6歳になったばかりでした。  弟たちと遊んでいる時、空襲警報が鳴りました。
 私たちは部屋の隅に固まって、じっとしていました。次の瞬間、泣き声で気がつくと血の海の中でした。
 アメリカ軍のB29が投下した爆弾の破片が私の足に当たり、足は膝から千切れていました。空襲警報が解除になり、私は病院に運ばれて、傷口は赤チンで消毒して終わりでした。
 入院中も毎日空襲は続いて、寝ている部屋にも機銃掃射が降ってきました。
 足が亡くなったことが、どういうことなのか6歳の私には理解できず、ちぎれても生えてくるトカゲの尻尾のように、「足は生えてくる」と信じていました。足を奪われて1カ月後の8月15日、太平洋戦争は敗戦で終わりました。

 新たな闘いの始まり

 戦争は終わっても、足は生えてきませんでした。1946年4月、疎開地で新入学の時がきた、母の背で刺すような視線をあびて校門をくぐったが、学校へはほとんど行けませんでした。傷害者には職場はなく、生きていくには手に職をと、母が薦めた洋裁を習いました。偏見や差別を避けて家で洋裁に明け暮れていました。「戦争さえなければ、こんなつらい目に遭うことも無いのに、なぜ戦争に反対せんかったの」と母に言った。「気が付くと戦争は、始まっていた」と。私は納得できませんでした。

 勇気をもって伝える

 多くの人が反対するなか、5年前自衛隊がイラクに派遣されました。  母の「気が付くと戦争は始まっていた」という時代と似ているのかも知れないと思いながらも何もできない自分に気づき、母を責めたことを後悔しています。戦争ほど残酷なものは有りません。殺したり殺されたり、侵したり侵されたり、正義など有りません。戦争が起これば、私のように戦争が終わっても、苦しんで生きる人間が生まれる、私は黙っていてはいけない!じっとしていてはいけない!と思いました。封印してきた戦争体験を今は勇気をもって伝えるようにしています。

 補償のない被災者

 国は、軍人軍属には手厚い援護がなされています。国は民間の一般戦災者には、謝罪も補償もしていません。  東京大空襲訴訟(2007年3月提訴)につづき、大阪空襲被災者も提訴の準備を進めています。どうかご支援くださいますようお願いします。

(社会福祉法人コスモスでの講演要旨−コスモスリポート2008年8月号)

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藤原まり子

 あの日の記憶はない。しかし、苦しみは今も続く。約4000人の命を奪った大阪大空襲の2時間後に生まれた藤原まり子さん(59)=大阪市東住吉区=は、母に抱えられて逃げ込んだ防空壕で、左足に大やけどを負った。大空襲最年少の被災者は「悲劇を二度と繰り返してはいけない」と平和を願う。13日、その大空襲から60年を迎える。 【鵜塚健】
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 1945年3月13日夜。大阪市阿倍野区の自宅で元気な産声を上げた。庭先に防空壕を掘った祖父は1週間前に病死。集まった親類は「おじいちゃんの生まれ変わりだ」と喜んだ。しかし、約2時間後の同日午後11時50分過ぎ、空襲警報が鳴り響き、母と共に布団にくるまれ、壕内へ。直後壕に焼夷弾が落ち、左足に大やけどを負った。
 ケロイドが残り、足首、ひざの関節がうまく曲がらない。小学校時代、運動会は隅っこで見守るだけ。左足に付けた補助具で太いズボンしかはけなかった。
 思春期を迎えた中学2年の夏、どうしてもスカートがはきたくて、左足のひざから下を切断、義足をはめた。念願はかなったが、義足が擦れて痛みが襲う。修学旅行で歩くのが遅れ、「私なんて迷惑かけるだけ」 「戦争で死んでいればこんな苦しみもなかった」と思った。
 高校卒業後も、就職先は限られ、遠出もままならなかった。24歳で結婚し、2男1女が誕生。子育てに追われながら、対象外とされた民間人の戦争被害補償を求める「戦時災害援護法」を実現する運動に、不自由な足で奔走した。
 「私の人生を変えた国の責任を問いたい」との一心からだ。「焼夷弾で真っ赤に染まった大阪の街も戦場だったはず」。疑問は消えない。
 「民間人への補償を法制化すれば、戦争で国は莫大な支出が必要になる。それが戦争を思いとどまらせることになれば」5人の孫の元気な姿に「戦争は絶対にさせてはいけない」との思いを強くする。

(毎日新聞2005年3月12日)

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浜田栄次郎

 原告、浜田栄次郎です。昭和4年生まれです。
 私にとって、生涯忘れることの出来ない日は、昭和20年3月13日の大阪大空襲の日です。当時、私は中学2年生、家は大阪市大正区南恩加島町にありました。

 目の前は火の海、気がつくと火傷に

 夜9時頃、「今晩の空襲は大きいらしい」というラジオ放送が流れ、私は、無理矢理起こされました。家の前に立つと、B29が近くに迫ってきて、焼夷弾が落下する、ジャー、ザァーともなんとも言えない音がしました。そして、その音とは違う甲高い音がして、私の立っていた所に、焼夷弾が落下。目の前は火の海。気付くと、顔、両手、両足を火傷。特に、右の手は、皮膚がべろんと、垂れ下がるほど重い火傷を負いました。
 元通りに動かなくなった右手
 その後、9ヶ月の病院生活で、何回も手術を受けましたが、右手の指先は曲がった状態のまま。リハビリを続けましたが、結局、右手が元通りに動くことはありませんでした。

 障害者ゆえに就職もできず自営を

 30歳を過ぎて、両親が亡くなり、家業の麻袋商も斜陽産業へ転落。私には妻と幼子がいました。当時、大型車運転手の求人募集はたくさんあり、私も大型免許を取得しました。しかし、私の右手を見て、「これでは荷物持つのも、むずかしいなぁ」と言われ、雇ってくれる会社はありませんでした。障害者ゆえに就職できない私には、自分で仕事を開拓するしか残された道はありませんでした。そこで、大型トラックを買い入れて、運賃収入の方策を探りましたが、個人事業者の立場の弱さを利用する輩もいて、売掛金の手形の不渡りになったり、倒産夜逃げもあり、安定した収入がなかなかありません。

 わかってほしい我慢してきた苦しみ

 その後、トラック運転手を諦め、タクシー運転手で生計を立てました。
 私には、何の保証もなく、働き始めて60年間「明日、仕事は何しよう。先々の仕事はどうしょう」と、考える毎日でした。
 がまんしてきた苦しみを国に、わかってほしい、そして、「間違っていた、悪かった」と謝ってほしい、これが、私がこの裁判で訴えたいことです。
 79歳の私に、残された時間は、長くはないのです。(聞き手 文箭)

山﨑恒廣

 長野県松本市に住んでいる、原告の山﨑恒廣です。75歳になります。
 去年の秋、地元の新聞の信濃毎日新聞に、大阪空襲の遺族や負傷者らが国に損害賠償と謝罪を求める裁判を起こす準備を進めている、という記事が出ました。
 この記事を見た翌日、信濃毎日新聞社に電話しました。記事は、共同通信社が書いたものであることがわかり、今度は、共同通信社に電話しました。そこで、原告の代表、安野輝子さんの連絡先を教えてもらい、すぐに安野さんに電話して、「原告になる」と伝えました。私が原告に加わったのは、もし父が生きていたら、きっとこの裁判に参加しただろうと、思うからです。
 私は、第1次大阪大空襲があった昭和20年3月、父の故郷の長野県上田市に縁故疎開していました。当時、私は15歳でした。

 空襲で幼少の弟は行方わからず

 大阪市西成区の今宮駅近くにあった実家には、父と弟が暮らしていました。
 そして、3月13日に最初の大空襲が大阪を襲いました。当時、父は警防団に入り、空襲から逃げ回る近所の人たちを誘導していたということです。父は命を奪われることはなかったのですが、弟の行方が分からなくなりました。当時、弟は4歳か5歳でした。この年に、学校に上がることになっていたと記憶しています。
 弟の行方が分からないまま、父は、その後、大阪を離れ、私と長野県松本で暮らすようになりました。

 戦災孤児の情報で何度も大阪に

 松本に移ってから、昭和21年から23年ごろまでの新聞に、戦災孤児の情報が出ていました。写真と名前、年齢の3つが出ていたんです。父は、この戦災孤児の記事をよく見ていました。
 弟は、いつまでも生きていると思って探しに行ったんだと思います。こうした松本と大阪の往復は、2年ほど続きました。

 弟の骨を見ることなく父は他界

 弟はどこで亡くなったのか、弟の骨は結局、どこにあるのかわかりませんでした。父は、弟の骨を見ることなく、65歳で亡くなりました。
 父が弟を探しに大阪に行っていた2年間、その苦労を、当時15歳だった私は、身近に見ていました。もし父が生きていたならば、必ず、この裁判には参加していたはずです。私は、父に代わって、原告団に加わりました。
 爆死した人たちのことを考えると、国は、賠償と謝罪をしてほしいし、弟を探しに、松本と大阪を往復して、大阪を歩き回った父に対しても、国は無責任だと思います。 (聞き手 文箭)